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ペリーは日本が強国になるって予言していたってホント?

江戸時代の1853年にペリーが黒船に乗って日本にやって来ました。見慣れない外国人と巨大な4隻の戦艦を見た人々は大変驚いたと言います。そして翌年には江戸幕府とペリーとの間に日米和親条約が結ばれ、下田と箱館(函館)にアメリカの船が寄港できるようになりました。それまで鎖国をしていた日本が開国するきっかけとなった人物こそペリーです。

 

と、ここまでは学校でも習うので多くの方が知っていることですが、ペリーのその後はどうだったのでしょうか。ペリーのお父さんは私掠船(しりゃくせん)の船長でした。私掠船とは、敵国の船を攻撃して、船や積み荷や荷物を奪う許可(私掠免許)を得た個人の船のことで、簡単に言えば国のお墨付きをもらった海賊船です。船乗りだったお父さんの影響もあって、ペリーは15歳で海軍に入隊します。

 

海軍入隊後は、数々の手柄を立てて「蒸気船海軍の父」と称されるまでになりました。日本に来て日米和親条約を結び、琉球でも通信条約(琉米修好条約)も結んでいます。当時の琉球は独立国でしたので日本とは別に条約を結んでいたのです。このように日本と琉球での地盤を固めたのがペリーだったのです。

 

しかし、その後ペリーが日本で活躍したという話は聞きませんね。それもそのはずで体調不良を理由にアメリカに帰国しているのです。ペリーはアルコール使用障害、痛風、リウマチを患っていたとのことです。

 

晩年航海には出なかったものの、ニューヨーク州マンハッタンに居を構え、「日本遠征記」を執筆します。ペリーはこの書物の中で「日本人は精練された理性的な国民で、隣国の清国(中国)より説得に対して心を開く」と書いています。加えて、日本人の職人の力量を高く褒めています。「さらに自由に発明の能力が発揮されれば、世界でもトップクラスの製造業国になるだろう」と予見していたのです。

 

まだまだ列強と肩を並べることのできなかった当時の日本ですが、いち早く日本の力量を見抜いていた人物だったとも言えます。日本人の勤勉さや国民の識字率、加えて職人の腕などを見ての評価だったのかもしれません。

 

ペリーは日本遠征記を書き終えるとすぐに亡くなります。日本から帰国して4年後のことでした。日本との関わりは短期間でしたが、日本の歴史に大きな影響を与えた人であることは間違いないですね。

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