皆さんは「霞が関ビルディング」をご存じでしょうか。聞いたことがない方がほとんどかもしれません。それもそのはずで、東京にある一オフィスビルに過ぎないからです。しかし霞が関ビルディングはただのオフィスビルではありません。このビルが建てられた1968年当時、日本に147mの高さを持つ日本初の超高層ビル、まさに「空に手が届くビル」として一世を風靡しました。その後もビルの魅力は色褪せず、日本の超高層ビルブームの幕開けとして重要な存在となったのです。
霞が関ビルは、東京都千代田区に位置し、地上36階・地下3階建ての巨大ビルです。地震大国・日本で、なぜこんなに高いビルが実現したのでしょうか?その背景には、当時の建築技術の革新がありました。霞が関ビルには「柔構造」という、ビル全体を柔らかくし、地震のエネルギーを吸収する構造が採用されています。この斬新なアイデアがあったおかげで、日本初の高層ビルが安全に立ち続けることが可能になったのです。
そして、ビルの設計も斬新でした。当時のビルは地面にどっしりと構えた「低層」の建物が主流で、高層ビルの建設は多くの規制をクリアする必要がありました。霞が関ビルはその規制を初めて打ち破り、特別な高さ制限緩和制度を利用した先駆的な建築物です。また、ビル内には郵便局や診療所、展望台まで設けられ、「ひとつの街」のように設計されています。ビル内で生活に必要なサービスが完結するというのも、新しい時代のビルならではの特徴です。
オープン当初は、最上階に展望台「パノラマ36」がありました。この展望台は連日行列ができるほどの人気で、まるで「天空に浮かぶ城」のように見下ろせる景色が人々を魅了しました。虎ノ門交差点付近まで長い行列ができたとも言われており、当時の入場料収入はビルの数階分の家賃にも匹敵するほどだったそうです。今では展望台は閉鎖されていますが、ビルが提供する都市のパノラマは、当時の人々にとって大きな魅力だったことが伺えます。
さらに、霞が関ビルの完成当初は、「超高層ビル=危険」という先入観がありました。地震や火災の際に危険だと思われ、テナントの入居も簡単ではなかったのです。そのため、三井不動産は安全性を強調するために、科学的なデータや安全性を説明する映画まで製作し、丁寧に説明する努力をしました。このような熱心な営業活動が実り、ビルは竣工年には満室となりました。今となっては考えられないですが、当時は「超高層ビル」に対する不安が根強かったのです。
霞が関ビルが持つ「象徴性」も見逃せません。今でこそ大きさを表すものとして「東京ドーム何個分」と例えられますが、東京ドームができる前までは「霞が関ビル何杯分」という例えがなされていました。それぐらい建設された当初はインパクトのある大きなビルだったことがうかがえますね。
霞が関ビルは単なる高層ビルではなく、日本が誇る建築と都市計画の歴史的な証人です。今では周囲にさらに高いビルが立ち並んでいますが、霞が関ビルが持つ歴史的価値と「初」の記録は、今も色褪せることはありません。このビルを通じて、日本の都市がどのように変わり、未来に向かって進化してきたのかを垣間見ることができるのです。霞が関ビルディングは、ただのオフィスではなく、日本の都市開発と挑戦の象徴といえるでしょう。