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なぜ富山は薬売りで有名なの?

富山駅前の薬売りの像

「越中富山の薬売り」と聞いたことがあるでしょうか?実は、富山県が薬の配置販売で有名になった背景には、長い歴史とユニークな商法が隠されています。ここでは、富山がどのようにして薬売りの地として名を馳せたのか、そしてその成り立ちについてご紹介します。

 

【富山売薬の始まり】

富山の薬売りの歴史は、16世紀ごろにまで遡ります。当時、越中(今の富山県)に薬種商の唐人が集まり、富山の地で薬の販売が始まりました。その後、1639年に加賀藩から分かれてできた富山藩が、この薬売りに力を入れることとなります。富山藩は経済的に苦しい状況にありましたが、薬の販売業を通じて藩の経済を支えようとしたのです。

 

【富山藩主・前田正甫と「反魂丹」】

富山の薬が有名になったのは、2代目藩主・前田正甫(まえだまさとし)が薬に興味を持ち、「反魂丹(はんごんたん)」という胃腸薬を開発したことがきっかけとされています。伝説によれば、正甫は江戸城で腹痛を患っていた三春藩主・秋田輝季にこの反魂丹を服用させ、彼の腹痛をすぐに治したとされています。この「江戸城腹痛事件」が話題を呼び、諸大名がこぞって富山の薬を求めるようになりました。このエピソードがきっかけで、「越中富山の薬売り」という言葉が広まったのです。

 

【他にない「先用後利」の商法】

富山の薬売りは、当時の人々にとってとてもありがたい存在でした。その一つが「先用後利(せんようこうり)」と呼ばれる商法です。これは「薬は先に置き、使った分だけ後から代金をもらう」というシステムで、病気の時に必要な薬をすぐに使えるという利便性がありました。貨幣がまだ十分に流通していなかった時代、薬代をすぐに支払うのが難しい家庭も多く、この商法が喜ばれたのです。

 

【薬売りとおまけ文化】

富山の薬売りには、もう一つの特徴として「おまけ」があります。薬を購入する際におまけとして絵を渡す習慣がありました。これを「富山絵」と呼び、歌舞伎役者や風景を描いた美しい絵が多く、江戸時代から明治にかけて人々に愛されました。富山の薬売りは、こうしたおまけを通して薬の販路を広げ、さらに地方への文化の伝播にも一役買いました。

 

【薬売りの発展と「懸場帳」】

富山の薬売りは、地域ごとに「懸場帳(かけばちょう)」と呼ばれる顧客台帳を作成していました。これには、どの家庭にどの薬が必要か、家族構成などの情報が細かく記録され、再訪問の際にも役立ちました。まさにデータ管理の先駆けともいえる仕組みで、商売の管理や信頼関係を築く上で非常に重要な役割を果たしていました。

 

【現代に残る富山の薬産業】

明治時代に入ると西洋医学が日本にも普及し、薬産業は一時的に衰退しましたが、富山の薬売りは生き残りを図り、医薬品の生産を拡大しました。現在でも富山県は製薬会社が多く存在し、医薬品産業が盛んです。例えば、後発医薬品の開発や生産など、現代の医療にも貢献し続けています。

 

このように、富山が薬売りで有名になった背景には、藩主・前田正甫の熱意や、時代に合わせた商法の工夫をし、また「先用後利」や「懸場帳」といった工夫は、顧客の信頼を築くための商売の知恵でもありました。この富山の薬売りの歴史を知ると、どんな時代でも人々の生活に寄り添う商売がいかに大切かを感じさせられますね。

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