多くの人が持っている信長のイメージは、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」に表れている通り、冷酷で残酷で感情的な人と思っているかもしれません。確かにそういった部分もあったことでしょう。しかし裏の顔は意外にもしたたかな外交で戦乱の世を生き抜いても来ました。今回は信長の裏の顔を見ていきたいと思います。
好戦的な雰囲気を醸し出す信長ですが、強いだけでは天下を取ることは出来ません。生き残るために外交力をふんだんに発揮します。畿内(現代の大阪・奈良・京都あたり)の周囲には強敵がわんさかいました。最強騎馬軍団で有名な武田信玄を恐れていた信長は、信玄が信濃から飛騨に侵攻してくると、迎え撃つのではなく信玄の息子の勝頼と養女の縁組みを進めて武田家との友好関係を結んでいきます。そして養女が死ぬと、こんどは信長の長男の信忠と信玄の娘の松姫を婚約させ、あくまでも友好関係を装いました。信玄への進物はいつも極上品を用意していたそうです。
越後には軍神と言われた上杉謙信がいます。戦に長けた戦国大名です。信長は謙信とも正面でやり合うのではなく、当時の売れっ子画家だった加納永徳が描いた「洛中洛外図屏風」という最高級のお宝をプレゼントしています。
信長は1568年に上洛を果たした際に、安芸の毛利元就に「困ったことがあればお手伝いいたします」という旨の書簡を送っています。そして実際に毛利を助けるために播磨に援軍を出しています。加えて、毛利元就が織田信長の昇進祝いとして馬を贈れば、信長がそれに対する礼状を送っています。良い関係を築いていました。
このようにぺこぺこ外交を行ったことで、周辺の強力大名たちと良い関係を築き、そのあいだに畿内を平定していきました。しかし強引な外交も行っています。伊勢の北畠具教を攻めたさい、1か月も城を攻囲した後に、次男の信勝を強引に養子にして講話を結んでいます。また、浅井長政と朝倉義景と闘っている時には、敵が比叡山に立てこもるとすぐに講話を結んで、状況が好転するまで待っています。
このような外交も行ったので、敵から狙われる場所にいたにもかかわらず、織田軍の合戦はそれほど多くはありません。信長の手法としては、外交を駆使して敵を安心させ、その間に力を蓄え、タイミングが来たら一気に攻めるというものです。謙虚だったからペコペコ外交をしていたのではなく、したたかだったからペコペコ外交をしていたのです。そのような狡猾さがあったので天下を取ることが出来たのですね。