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なんで、キリスト教は戦国大名に歓迎されたの?

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平戸ザビエル記念教会

学校で学びますが、日本にキリスト教を伝えたのはイエズス会のフランシスコ・ザビエルです。時期は1549年で戦国時代になります。今から472年前のことです。フランシスコ・ザビエルは1506年、スペインに生まれ、その後イエズス会の宣教師となって東洋やインドの布教を行い続けました。

 

マラッカ(マレーシア:マレー半島の南端)にいた時、日本人ヤジロウに出会い、天文18年(1549年)にヤジロウの故郷である薩摩(現在の鹿児島県)に渡来しました。薩摩の領主の島津貴久に布教を願い求めたところ許可されました。戦乱の中に平和と愛を説くザビエルの教えに感銘を受けたからだといわれます。しかしキリスト教に対する寺社や国人衆の反対が激しかったことや、期待したほどに南蛮船も訪れなかったことから、後に布教を禁止してしまいました。

 

その後ザビエルは平戸(現在の長崎県)に移ります。平戸での布教は成功し、多くの信者を獲得しました。もっと多くの人に布教を行えるようにするため、中央の最高権力者に布教を願い出ようと京都に行きましたが、当時の天皇や足利将軍家の権威が失墜していたため思ったほどの成果があげられませんでした。その後、また西に向かいます。

 

彼らの布教の仕方とは、まず各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め、さらに布教を円滑に進めるために大名自身に対する布教も行います。そのような手順を踏むことで効率的に伝道していきます。後から来日した宣教師たちも同様に各地の大名に謁見し、領内布教の許可や大名自身への布教を行っていました。

 

ザビエルは京都から戻る際に、周防国(現在の山口県)では大内義隆に謁見し布教の許可を得ます。また豊後国(現在の大分県)では大友義鎮(のちの大友宗麟)にも不況の許可をもらい義鎮自身も入信しました。南蛮貿易で外国人に見慣れていたこともあり、九州では多くのキリシタン大名が誕生しています。

 

大名たちは昔からある神道や仏教を捨ててまでなぜキリスト教に肩入れしたのでしょうか。宣教者たちは領国内での布教の見返りとして、南蛮貿易の拡大や武器・弾薬(特に当時日本で生産できない硝石)の援助などを提示した者もおり、大名側もこうした宣教師から得られる利益をより多く得ようと、入信して歓心を買った者もいました。また海外の先進的な文化を得る目的もあったようです。このように両者の利害関係が一致した結果、キリスト教は短期間のうちに広まっていったのです。わずか30年で15万人ものキリスト教の信者が広がっていきました。

 

おもなキリシタン大名

・大友義鎮 

・有馬晴信(大村純忠の甥)

・大村純忠(有馬晴信の叔父)

・高山右近(キリスト教の弾圧によりマニラに送られた)

・小西行長

・蒲生氏郷

・黒田孝高(黒田官兵衛)

・筒井定次

・織田秀信(織田信長の孫)

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