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江戸時代にオランダ人だけが日本に出入りできた理由とは?

稲佐山から見た長崎市内

江戸時代、日本は「鎖国」と呼ばれる政策を行っていました。多くの外国との交流を制限し、日本独自の文化や経済を守るための方針でした。しかし、この鎖国政策の中でも例外がありました。それがオランダ人です。「なぜオランダ人だけが特別だったのか?」その理由を探ってみましょう。

鎖国政策とは?

まず、鎖国政策について説明します。江戸時代の初期、日本は多くの外国と貿易を行っていました。しかし、キリスト教の宣教師たちが布教活動を広げ、幕府にとって脅威と感じられるようになりました。特に、スペインやポルトガルといったカトリック教徒の国々が、宗教と共に日本の政治に介入する可能性があると危惧されたのです。

 

そこで、徳川幕府は1639年にポルトガル船の来航を全面的に禁止するなど、厳しい制限を設けました。そして1641年には、外国人が出入りできる唯一の場所として長崎の出島が指定されました。

オランダ人が選ばれた理由

では、なぜオランダ人だけが出入りを許されたのでしょうか?その背景には、オランダ人の態度とキリスト教への距離感がありました。

 

オランダは当時、プロテスタントの国でした。カトリック教徒のスペインやポルトガルと異なり、布教活動にはほとんど関心がありませんでした。また、オランダ人は日本のルールを守る姿勢を見せていました。例えば、日本国内でキリスト教の布教をしないという条件を受け入れました。この点が幕府にとって安心材料となったのです。

 

さらに、オランダは貿易の面でも重要なパートナーでした。彼らは中国や東南アジアから多くの珍しい品々を持ち込み、日本にとって経済的な利益をもたらしました。また、科学や医学といった当時の最先端の知識もオランダを通じて日本に伝わり、幕府にとって大きな価値があったのです。

出島での生活と制約

オランダ人が自由に日本で活動できたわけではありません。彼らは長崎の出島という小さな人工島に限定され、そこで生活し、貿易を行いました。出島は、まるで牢獄のように外界から隔絶された場所でした。島から出ることは厳しく制限され、日本人と自由に交流することもできませんでした。

 

それでも、オランダ人たちはその条件を受け入れ、幕府の信頼を得ていました。彼らは毎年、江戸に向けて「オランダ風説書」という報告書を提出し、ヨーロッパの情勢や科学の新情報を幕府に伝えていました。これが、幕府にとっても大きな利益となり、オランダ人が長期間にわたり日本との関係を維持できた理由の一つです。

鎖国政策の終焉とその後

このオランダとの特別な関係は、鎖国政策が終わるまで続きました。1853年、アメリカのペリー提督が日本を開国させたことで、鎖国政策は終焉を迎えました。その後、日本は世界との交流を再開し、オランダ以外の国々とも貿易や文化の交流を進めていきました。

まとめ

江戸時代にオランダ人だけが日本に出入りを許されたのは、宗教的な問題を回避しつつ、貿易や知識の共有というメリットを活かすためでした。オランダ人は幕府の方針に従い、長崎の出島という限られた空間で活動しながらも、長く信頼関係を築いていました。この特別な関係は、鎖国という閉ざされた時代において、日本が外の世界とつながる唯一の窓口だったのです。

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