「江戸時代の日本」と聞くと、どんな風景を思い浮かべますか? 武士が町を歩き、商人がにぎやかな市場で商売し、町人たちが活気あふれる暮らしを送る姿——そんなイメージかもしれません。でも、実はこの江戸という都市、世界最大級の人口を誇っていたことをご存じでしょうか?
江戸の人口はどれくらい?
18世紀後半、江戸の人口は100万人を超えていたとされています。これは同時期のロンドンやパリよりも多かったといわれています。例えば、18世紀のロンドンの人口は約80万人、パリは約60万人ほどでした。当時のヨーロッパの都市は産業革命の影響で発展しつつありましたが、それでも江戸の人口規模には及びませんでした。
では、なぜ江戸はこれほどまでに大きな都市になったのでしょうか?
「将軍のお膝元」がもたらした発展
江戸はもともと小さな漁村でした。しかし、1603年に徳川家康が幕府を開くと、ここが日本の政治の中心となりました。全国の大名たちは「参勤交代」という制度によって、定期的に江戸に住むことを義務づけられました。彼らの家臣や家族も一緒に江戸へ移り住み、大名屋敷が立ち並ぶ大都市へと変貌していったのです。
また、大名だけでなく、商人や職人たちも江戸に集まりました。武士たちの暮らしを支えるために食料や日用品が必要になり、これが江戸の経済を大きく発展させるきっかけとなりました。
世界でも珍しい「町人の都市」
江戸が世界最大級の都市になった理由のひとつに、その人口構成があります。江戸の人口の約7割は町人(商人や職人)であり、武士は3割ほどでした。当時のヨーロッパの都市は貴族や聖職者が権力を握っていましたが、江戸では庶民が経済の中心にいたのです。
町人文化が発展し、浮世絵や歌舞伎、落語といった娯楽も生まれました。「江戸っ子」という言葉が示すように、気風の良い町人たちが作り上げた活気ある文化は、江戸の魅力のひとつでした。
驚くべきインフラと衛生環境
人口が増えると問題になるのが、水や食料、衛生管理です。しかし、江戸はこれらの面でも非常に優れていました。
例えば、上水道。江戸には「神田上水」や「玉川上水」といった水道が整備されており、庶民の家にまで清潔な水が行き渡っていました。これは当時のロンドンやパリでは考えられないことでした。ヨーロッパの都市では飲み水の確保が難しく、不衛生な環境が病気の流行を招いていましたが、江戸では比較的健康的な生活を送ることができたのです。
また、江戸ではリサイクル文化も発展していました。紙くずを回収する「紙屑買い」、壊れた陶器を修理する「焼き継ぎ屋」、古着を売買する「古着屋」など、今でいうリサイクル産業が盛んでした。これは、世界のどの都市よりも環境に配慮した社会だったといえます。
なぜ「世界一の都市」として知られていないのか?
これほど大きな都市だった江戸ですが、当時の世界ではあまり知られていませんでした。その理由のひとつが、日本の「鎖国政策」です。江戸時代、日本は外国との交流を制限していたため、ヨーロッパの人々にとっては「謎の国」だったのです。
一方で、中国の商人やオランダの商館員など、一部の外国人は長崎を通じて江戸のことを知っていました。オランダの記録には「江戸は巨大な都市であり、非常に清潔で秩序がある」と記されています。もし当時の日本が積極的に国際交流をしていたら、江戸の名はもっと世界に知られていたかもしれません。
まとめ
江戸は18世紀後半には世界最大級の都市となり、政治・経済・文化の中心として発展しました。清潔な水道、発達した商業、活気ある町人文化など、その先進性は世界的に見ても驚くべきものでした。しかし、鎖国の影響でその存在はあまり海外に知られず、「世界最大の都市」としての認識が広がらなかったのです。