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悲しきかな…火縄銃の製造方法と引き換えになった娘の物語

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鉄砲(火縄銃)が伝わった場所と言えば種子島です。これは学校で習いましたね。戦国時代真っ只中の1543年のことです。ポルトガル人が持ってきた鉄砲によって戦の仕方は劇的に変わりました。それまでは弓はあったものの刀や槍を使って相手に接近して戦っていましたが、鉄砲が入って来てからは遠方から相手を狙撃できるようになりました。また破壊力も抜群でした。

 

戦の仕方を変えたとも言われる鉄砲ですが、ポルトガル人から最初に購入した鉄砲は2挺だけでした。しかし値段は二千両(今の金額で約2億円)という途方もない額だったのです。この高額な鉄砲を購入するという英断を下したのは種子島領主の種子島時堯(ときたか)です。彼は当時16歳という若さだったことを考えるとすごい人物ですね。

 

種子島時堯は領内の鍛冶職人だった矢板金兵衛(やいたきんべえ)に製造方法を学ばせました。金兵衛はポルトガル人から買った鉄砲を量産すべく製造に取り掛かりましたが、銃身の底の強度が弱かったため暴発する問題に悩まされていました。当時の日本にはネジの概念がなかったので金兵衛には銃身の底を強固に塞ぐ方法が判らなかったのです。そこで翌年再び来航したポルトガル人からネジの製造方法を学ぶことで問題を解決しました。

 

しかしネジの製造方法を教わるのと引き換えに金兵衛の娘・若狭(わかさ)をポルトガル船員の嫁に出すことになりました。父親の苦悩を見た若狭が自ら決心したとのことです。すごい交換条件ですが、娘を嫁がせてもいいと思えるほど金兵衛の鉄砲に対する熱意があったということかもしれません。火縄銃は父親の熱意と、娘の犠牲の上に成り立ったものといえます。

 

その後、若狭は船に乗ってシンガポールまで行ったとされていますが、異国での生活が合わずに翌年(1544年)種子島に帰島して、その後は外国には行かなかったとされています。若狭は、日本で初めて(アジア系の人間以外と)国際結婚をした日本人だとされています。

 

紀伊(和歌山県)の武将、津田監物(つだけんもつ)が種子島時堯から鉄砲を購入し、畿内に持ち込まれます。周辺の堺、根来、雑賀、国友などの関西圏に鉄砲製造所が多かったのはこのためです。戦国時代末期には50万挺を超えたと言われていますので、本家ポルトガルも驚きですね。

 

今回は、火縄銃の普及に1人の娘の犠牲があったというお話でした。

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