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服部半蔵って忍者じゃないの?

忍者といえば真っ先に思い浮かぶのが服部半蔵ではないでしょうか。アニメ、マンガ、ゲームなどの作品の中で、服部半蔵は様々な忍術を駆使して敵を倒すスーパー忍者として描かれています。しかし、史実の服部半蔵は、忍術よりも武勇や知略で活躍した武将でした。彼は忍者というイメージとは裏腹に、徳川家に仕えた武士だったのです。

 

この服部半蔵という名前は、戦国時代から江戸時代にかけて代々受け継がれた通称になります。服部家の始祖(1代目)は伊賀国の服部という地に住む豪族と言われていて、名前は服部半蔵保長です。彼が徳川家康の祖父に仕え始め、徳川家(松平家)家臣として三河国に移り住みました。その後、徳川家は伊賀者の傭兵を伊賀出身である半蔵に指揮させることになります。

 

では、服部半蔵は忍者ではないのでしょうか。戦国時代の忍者というのは、大名の求めに応じて伊賀や甲賀などから派遣された傭兵でした。会社で例えると正社員ではなく、派遣社員とでもいうのでしょうか。一方、服部半蔵は傭兵ではなく、徳川家に仕える家臣です。服部半蔵として有名な2代目の正成は、石見守という官名があり、戦場においては黒装束を纏うのではなく甲冑を着けていました。ですから服部半蔵は忍者ではなく武士なのです。

 

服部家代々の当主は「半蔵」を名乗っています。2代目服部半蔵正成、3代目服部半蔵正就の代には、徳川家康の天下獲りに多く貢献します。そして江戸時代に入り、江戸城の門を警固した服部正成と服部正就父子の通称「半蔵」を付けて「半蔵門」と名付けられたと言われています。現在の皇居の西にある門で、門の正面には内堀通りと新宿通りが交わる交差点の名前が半蔵門で、東京メトロ半蔵門線の半蔵門駅も由来はここになります。東京の人には馴染みのある名前となっています。

 

服部半蔵家が忍者だったのは初代の保長のみと言われています。2代目以降は武士として活躍し、忍者としての活動に関する記録は見当たりません。服部家は江戸時代後期に桑名藩に移り、徳川家の家老となっています。幕末の戊辰戦争では12代服部半蔵正義が徳川方に付き、新政府軍と戦っています。しかし正義には子供がいなかったので彼の代で服部家は断絶しています。

 

では、なぜ服部半蔵は忍者として有名になったのでしょうか?その理由は、江戸時代の創作物にあると考えられています。当時の人々は、忍者の存在に強い興味を持っていました。そこで、人気武将で伊賀にルーツを持つ服部半蔵を忍者として脚色し、物語に盛り込んだのです。こうして、服部半蔵は忍者の代名詞として広く知られるようになりました。史実と創作が混ざり合った服部半蔵像は、日本のみならず、外国の方にも人気の人物となっていったのです。

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