貴殿のふとした疑問に答えるブログ

ふと疑問に思う「なぜ?」「どうして?」「〇〇って何?」に答えるブログです。

水戸黄門の名前を世の中に広めたのは松下幸之助だったってほんと?

水戸駅前にある水戸黄門の像

皆さんはテレビで放映されていた水戸黄門を見たことはありますか。今の若い方はないかもしれませんが、「この印籠が目に入らんか」といっているシーンは知っているという方も多いでしょう。今回は水戸黄門と事業家の松下幸之助のお話です。といっても、2人は同じ時代に生きていたわけではありません。どういうことでしょうか。

 

江戸幕府を開いた徳川家康には11人の息子がいました。2代目将軍には秀忠、3代目将軍は家光、そして家綱、綱吉と続いていきます。将軍は家康の直系から選ばれていました。次の地位として、徳川御三家があります。尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家です。水戸徳川家の初代藩主は家康の11男の徳川頼房でした。

 

頼房には正室をめとっていなかったのですが、側室は9名もいました。ある時、正式な側室ではなかった久子が頼房の子を身ごもりました。久子は正室ではありませんでしたので、周囲が出産を反対しました。頼房もしぶしぶ堕胎を命じ、久子の子供は死ぬことになったのです。

 

しかし、家老の三木之次は久子を不憫に思い、久子を京都に匿い、密かに出産させたのです。この子が後の徳川光圀で、水戸黄門と呼ばれた人です。水戸光圀は三木之次の機転によってこの世に生を受けることができたのです。

 

300年以上たった大正時代、三木之次の子孫だった三木啓次郎は、桜田門外の変を起こし、そのあと逃走し自刃した水戸浪士たちの霊を慰めるため、大阪四天王寺境内を訪れていました。ちょうどそのとき、若かりし松下幸之助が寺の前で二股ソケットを販売していて、三木啓次郎はその商品を見るなり100%売れると確信し、出資を決意しました。三木は経済的に裕福ではありませんでしたが、田畑を抵当に幸之助を資金援助しました。

 

得た資金で幸之助は、二股ソケットを大量生産し、それがヒット商品となりました。その後も事業が拡大し、瞬く間に幸之助は大企業の社長となったのです。この企業が現代のパナソニックになります。

 

幸之助は、自分の可能性に注目し、資金を援助してくれた三木啓次郎に恩義を感じてていたため、何とか彼に恩返しをしようと思い、松下電器1社だけの提供で、三木家と縁の深かった水戸徳川家で有名な「水戸黄門」を放送することになったのです。

 

水戸光圀と松下幸之助は生きていた時代は違えど、三木家(之次と啓次郎)によって2人は繋がったんですね。人生の中で人の出会いの大切さがよく分かるエピソードではないでしょうか。

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