貴殿のふとした疑問に答えるブログ

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江戸幕府最後の将軍の徳川慶喜って趣味を満喫していたってホント?

徳川幕府の最後の将軍と言えば、第15代将軍徳川慶喜です。学校でも必ず登場する名前ですね。徳川慶喜で有名な出来事として1867年に起きた「大政奉還」が挙げられるでしょう。徳川家康が江戸幕府を開いてから264年間徳川幕府が政権を握っていましたが、大政奉還をしたことで政権を朝廷(天皇)に返上したのです。この出来事は幕末期の政治的大事件でした。

 

では、その後の慶喜はどんな人生を送ったのでしょうか。戊辰戦争を経て江戸城を新政府軍に明け渡します。江戸を出た慶喜は故郷の水戸に戻り謹慎の身となります。しかし水戸にずっといたわけではなく、新政府軍の命によって家督を田安徳川家の家達(いえさと)に譲り、駿府(現在の静岡県)に移り住みます。

駿府に行ってからは政治の表舞台に顔を出すことはなくなり、自由気ままに趣味をエンジョイしていきます。もしかしたら不穏な動きをすると新政府に怪しいと思われてしまう可能性もあったのでそのように生活していたのかもしれません。

 

慶喜はどんな趣味を持っていたのでしょうか。謡曲、囲碁、工芸、油絵、和歌、能、書、乗馬、釣り、狩猟、サイクリング、写真など多岐にわたります。芸術面からスポーツに至るまでかなりアクティブな生活をしていたことが分かります。日本で3番目に自転車を購入したのが慶喜と言われています。

 

とりわけ、没頭した趣味は写真撮影だったようです。当時、写真を持っている人はほとんどいませんでした。その中で慶喜はいろいろな場所に出掛けては農作業の風景や海や港の風景など写真に収めています。なんだか物見遊山ですね。

 

慶喜はずっと駿府にいたわけではありません。大政奉還をしてから30年後の1897年に東京(巣鴨)に戻っています。何かするのかと思いきや特に何も動きはありませんでした。将軍時代の家臣にもほとんど会いませんでしたし、明治政府について口にすることも無かったのです。静かに過ごしていた方が得策と感じたのでしょう。

 

そんな慶喜の様子を見た明治政府は彼を高く評価します。天皇への拝謁も許されましたし、公爵の位も授けられたのです。加えて大政奉還の功により、明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与されています。慶喜は享年76歳で亡くなりますが、最後まで多彩な趣味を満喫していた人物だったのです。ちなみに、「日本橋」の字を書いたのは慶喜です。

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