江戸時代、日本は260年以上も戦のない平和な時代を続けました。その中心にいたのが徳川将軍家です。でも、もし将軍が突然亡くなったり、跡継ぎがいなかったら? そのときのために用意されていた“保険”のような存在が「御三家(ごさんけ)」や「御三卿(ごさんきょう)」でした。
まず御三家とは、水戸・尾張・紀伊という三つの大名家のことです。この三家は徳川家康の子どもたちがそれぞれ治めることになり、将軍家ととても深い関係にありました。たとえば、水戸藩を治めたのは家康の十一男・徳川頼房で、後に「水戸黄門」として有名になる徳川光圀(みつくに)はその息子です。光圀は学問に力を入れ、『大日本史』という歴史書を作らせたことで有名です。
この御三家は「いざというときには将軍を出してもよい家」とされていました。つまり、将軍家に跡継ぎがいなくなった場合、御三家の中から次の将軍を選ぶことができたのです。実際に、八代将軍・徳川吉宗は紀伊藩出身でした。吉宗は倹約と改革で有名で、「暴れん坊将軍」としてもドラマで描かれましたね。
では、御三卿とは何でしょう? こちらは江戸時代の中ごろになってから作られたもので、清水・田安・一橋の三家があります。彼らは大名ではなく、江戸に住みながら将軍の補佐役や、必要なら将軍の候補として準備されていた家です。つまり、さらに将軍家の血筋を絶やさないための“バックアップ”だったのです。
たとえば、一橋家からは後に十五代将軍になる徳川慶喜(よしのぶ)が出ました。彼は江戸幕府最後の将軍として、幕末の激動の時代に登場します。徳川慶喜は、戦を避けて江戸城を無血で明け渡すという決断をし、江戸の町を戦火から守った人物です。
御三家や御三卿が存在したことで、江戸幕府は安定した政治を続けることができました。もしも将軍家が急に絶えてしまえば、国は混乱し、戦が起こるかもしれません。そんな危機を防ぐための仕組みだったのです。
想像してみてください。もし大きな船を一人の船長だけで操っていたら、病気や事故が起きたときに船はどうなるでしょう? でも、しっかりとした副船長や、交代できる船員がいれば、船は安心して航海を続けられます。御三家や御三卿は、まさにその「副船長」のような存在だったのです。
また、彼らはただの予備ではなく、文化や学問、政治においても大きな役割を果たしました。水戸藩では学問が発展し、「水戸学」と呼ばれる思想が生まれました。これが幕末の尊王攘夷運動にもつながっていきます。
つまり、御三家や御三卿は「保険」であり、「支え」であり、そして「未来の選択肢」でもあったのです。表舞台に立つ将軍を陰から支える、名もなきヒーローたちのような存在。それが、徳川家の仕組みの奥深さなのです。