大奥と聞くと、女同士の争いがクローズアップされますが、江戸時代の大奥は単なる将軍の妻たちの住む場所ではなく、もっと重要な目的がありました。その一つは、将軍家の後継ぎを確保するためです。徳川家康の血がつながった後継ぎを絶やさないようにしなければならなかったのです。
将軍に後継ぎがいれば、次に誰が政権を握るのかが明確になります。これにより、権力を奪おうとする混乱を防ぐことができたのです。しかし、世襲制を維持するのは容易ではありませんでした。まずたくさんの子供を産む必要があったのです。今の一夫一婦制では難しかったので、正妻だけでなく、多くの側室を迎えるための大奥が必要となりました。
・なぜ多くの子供が必要だったのか?
将軍家が後継ぎを安定的に確保するためには、最低8人の子供が必要とされていました。これはいくつかの理由によります。まず、生まれてくる子供の男女比はおおよそ半々です。8人の子供を産んだとしても、4人は男の子、4人は女の子という確率です。さらに、当時の乳幼児の死亡率は高く、将軍の子供たちも例外ではありませんでした。
例えば、11代将軍・徳川家斉には53人の子供がいましたが、そのうち成人まで成長したのは28人にとどまりました。つまり、約半分の子供が幼いころに亡くなったのです。仮に4人の男の子が生まれたとしても、そのうち成人するのは2人ほどになる可能性があります。
・成人しても油断できない時代
さらに、現在のように医療や衛生に関しても未発達な時代です。たとえ成人しても当時は病気で20代、30代という若さで命を落とすことが珍しくありませんでした。そのため、後継ぎとして確実に将軍の座を引き継げる男子を残すには、子供をたくさん産む必要がありました。
・大奥の存在が不可欠だった理由
このように一夫一妻制で8人以上の子供を産むのは難しいため、将軍は正妻だけでなく、側室との間にも子供をもうけることが求められました。大奥はそのための場だったのです。家柄の良い女性が集められ、将軍の後継ぎ確保のために大切な役割を担っていました。可能であれば16人以上子供がいればもっと安心できたのかもしれません。大奥の存在によって、将軍家は安定した世襲制を保つことができ、江戸幕府の平和と秩序を維持できたのです。
それでも15人の将軍のうち、4人(家綱・家継・家定・家茂)には子供がいませんでした。4代将軍家綱に子供がいなかったことから、5代目の家宣は将軍家に養子として入ってきます。この時点で徳川家康の直系の子孫は途絶えています。その後、養子は徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)から、その後は御三卿(田安・一橋・清水)からと決められました。いかに将軍家の後継ぎを絶やさないようにすることが大変だったかということがわかりますね。