貴殿のふとした疑問に答えるブログ

ふと疑問に思う「なぜ?」「どうして?」「〇〇って何?」に答えるブログです。

「ピストル堤」で有名な西武王国はなぜ転落したのか?

「ピストル堤ってなんや…」と思われる方もいると思います。これは、鉄道王として有名な西武グループの創業者である堤康次郎の事を指します。なんでそんな名前が付けられているのでしょうか。西武グループの発展にどう貢献してきた方なのでしょうか。

 

西武と聞くと東京と埼玉を結んでいる西武鉄道を真っ先に思い浮かべると思います。西武鉄道はかなりの路線を持っていて、強引に鉄道用地を買収して鉄道網を広げていったため、堤康次郎のことをピストル堤と呼んでいたようです。しかしもともとは不動産業者で、1920年には箱根土地株式会社(後のコクド)を設立し、箱根や軽井沢の開発を手掛けています。

 

都市部においては大泉学園の開発事業として東京商科大学(現在の一橋大学)の誘致を行なっていましたが、結局は頓挫してしまいました。なので大泉学園は名ばかりの学園都市になってしまいました。それでも、一橋学園がある国立や小平周辺の開発を手がけた結果、文教都市へ変えています。

 

沿線開発にも力を入れます。池袋に西武百貨店やパルコを作り、としまえん、西武ドーム、西武ゆうえんちなどの娯楽施設を建てていきました。つまり西武沿線の中で買い物、学校、娯楽を集約し、生活が完結できるようにしていったのです。この手法は阪急や東急で行なわれています。

 

このように西武は、リゾート開発、学園都市構想、沿線開発などに力を入れ、西武王国を築いていきました。とりわけ箱根や軽井沢のリゾート地の開発には力を入れていて、箱根においては同じく開発に力を入れていた小田急グループとバチバチやり合っていました。これを箱根山戦争と呼んでいます。

 

また、伊豆における観光開発では、東急グループと対立していたため伊豆戦争と呼ばれています。西武は各所に争いの火種を撒きつつリゾート開発を推し進めていきました。別荘地、ホテル、スキー場、ゴルフ場などを至るところに作っていき、多くの利益を生み出しました。

 

しかし、ここから転落の道を歩んでいきます。バブルが崩壊したためリゾート開発が立ち行かなくなってしまいました。リゾート開発に力を入れ過ぎてしまったためです。沿線開発をおろそかにしてしまったせいもあってか、沿線のブランドイメージは高くはありません。東急や小田急に比べるとやはり見劣りしてしまいます。

 

とはいえその後は経営改革を行い、株式再上場を果たした結果、長年の低迷から脱しています。沿線のブランドイメージを高めるべく経営を行なっていますので、今後どうなっていくのか注目してみたいところです。

にほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
にほんブログ村