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高級住宅地の裏に眠る茶の記憶:渋谷の松濤という名の茶畑

渋谷

皆さんにとって渋谷のイメージはどのようなものでしょうか。スクランブル交差点、忠犬ハチ公、若者の街などかもしれません。しかし、それは現在の話で、明治時代にはお茶畑が広がっていた場所だったのです。どういう事でしょうか。

 

お茶の産地で有名なのは、静岡茶、知覧茶(鹿児島)、狭山茶(埼玉)、宇治茶(京都)などが挙げられます。江戸時代には、西の宇治、東の狭山と呼ばれていました。とりわけ交通網が発達していなかった明治初期は、簡単に物が手に入る環境ではありませんでした。そのため高級な宇治のお茶を飲める人はごく一部の人だけに限られていたのです。

 

次第に、お茶が東京に持って来れないのであれば自分たちで作ればいい、という発想になっていきます。そのため東京各地でお茶の栽培が行われていきます。渋谷もその一つです。明治維新後に渋谷一帯は佐賀藩鍋島家に払い下げられました。

 

鍋島直大と鍋島家は、紀州徳川家から譲渡された広大な土地(現在の渋谷区松濤・神山町周辺)を有効活用するため、茶畑を作り、お茶の栽培を始めました。これは失業した藩士やその家族の救済策としても機能しました。

 

鍋島家は狭山から茶の木を移植し、「松濤園」と名付けた茶畑を造りました。この地が今や高級住宅地として知られる渋谷区松濤の名前の由来となりました。

 

松濤の意味は2つあり、一つは「松の梢を渡る風の音を波の音にたとえた言葉」、もう一つは「茶の湯の釜が煮え立つ音」です。これらの意味が松濤の名に深みを与えています。

 

松濤で生産されたお茶は「松濤」という銘茶として高級茶として広まり、明治18年(1885年)に山手線が開通すると、渋谷のお茶は日本橋や銀座、麻布、麹町などにも流通しました。

 

しかし、明治22年(1889年)に東海道線が開通すると、宇治茶や静岡茶など他の有名な茶葉が大量に東京に入り、松濤茶の需要が減少していきます。そして明治37年(1904年)には鍋島家の茶園が閉鎖されたのです。その後、松濤茶(渋谷茶)も茶畑も高級住宅地へと変貌し、渋谷の歴史に名を刻んだ茶の文化は次第に忘れられていきました。

 

松濤は渋谷駅からも近く高級住宅街と言われるだけあって、最低敷地面積200平方メートル以上なければならないというルールもあります。なので住んでいる人は、大手企業の社長、芸能人、有名人、政治家などです。ちなみに忠犬ハチ公の飼い主だった上野英三郎博士の家も松濤にありましたが、見ていた景色が今とはだいぶ異なっていたんですね。

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