貴殿のふとした疑問に答えるブログ

ふと疑問に思う「なぜ?」「どうして?」「〇〇って何?」に答えるブログです。

大名たちが江戸に攻め込まないようにするための手法は何だったの?

静岡県にある大井川

江戸時代には江戸に向かう道、すなわち街道が整備されました。特に四代目将軍「徳川家綱」の時代に整備された五街道はとても有名で、江戸から京都までの海沿いを結ぶ東海道、江戸から京都までの山沿いを結ぶ中山道、江戸から甲府までを結ぶ甲州街道、江戸から白河(福島県)までを結ぶ奥州街道、家康が祀られている日光東照宮までを結ぶ日光街道の5つがあります。

 

江戸につながる街道ができたことで、人の往来が増えていきます。それに伴い、街道にはそれぞれ宿場というものが設けられ、宿場のある町は宿場町としてにぎわいました。

 

しかし、簡単に江戸に行き来できるわけではなかったのです。なぜなら街道の要所には関所が設けられて、出入りする人々を取り締まっていたからです。「入り鉄砲、出女」という言葉があります。これは、江戸に向かって関所を通過しようとする鉄砲などの武器と、江戸から出ようとする女性たち、この2つは厳重に調べられました。

 

これは江戸に武器を持ち込まれたり、参勤交代でやってきた各藩の人質にしている大名の奥方に逃げられたりするのを防ぐという目的があったのです。要するに関所は徳川幕府に対する謀反を防止するための検問の役割や治安の維持があったのです。有名な関所では駅伝で有名な箱根の関があります。

 

でもそれ以上の難所は「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」といわれた、大井川が挙げられます。江戸から京都に通ずる東海道の途中にある大井川は、現在の静岡県にある大きな川ですが、なんと橋がかかっていませんでした。橋をかけなかった理由は、幕府に反乱を起こす部隊が江戸に入らぬように、わざと橋をかけなかったのです。ですから、大井川の水かさが増しているときなどは大名はもちろん、旅人も幾晩も足止めされたといわれています。

 

とりわけ徳川に敵していた大名は西国に多くいましたので、軍隊や武器が江戸に入ってこないよう、いくつものトラップを仕掛けていたんですね。それに加えて、大名たちには定期的に参勤交代をさせることで、多額のお金を使わせることに成功します。そのように経済力を削いでいったことから、軍事力を江戸に向けることができなくなり、江戸時代は260年という長きにわたって平和が保たれていたのです。こういった理由から江戸に攻め込むのはとても難しかったのです。

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