貴殿のふとした疑問に答えるブログ

ふと疑問に思う「なぜ?」「どうして?」「〇〇って何?」に答えるブログです。

戦国時代の軍師ってどんな人がいるの?

軍師とは何でしょうか。「大将につき従い、計略や作戦を考えめぐらす人」と定義されています。戦国時代には主君をサポートする軍師が大勢いました。今回は、それらの人物を考えます。

 

軍師と言って思い浮かべるのは誰でしょうか。軍師として名高い人物の一人に竹中半兵衛がいます。羽柴秀吉の家臣で、斎藤氏に仕えていた時には主君を諫めるために、数少ない手勢で稲葉山城乗っ取ったほどです。姉川の合戦でも浅井家の家臣を寝返らせたり、宇喜多氏の備前八幡山城を調略で落城させるなど、有能な軍師として知られています。しかし、その活躍は江戸時代に誇張されたものだという見方もあり真偽は定かではありません。

 

軍師というのは、軍事的な戦略だけではなく、外交や内政を担当する参謀的な役割が主君から求められていました。いわば主君の相談役になっていた人物は他にどんな人がいたでしょうか。

 

黒田官兵衛

竹中半兵衛亡き後、秀吉を軍事面で支えたのは官兵衛でした。鳥取城攻めや備中高松城水攻めでも活躍した人です。信長が本能寺で殺されたという情報が入った際には光秀を討って天下を取るよう秀吉に進言した人物として知られています。

 

石田三成

軍師というイメージはありませんが、秀吉の側近として内政面で能力を発揮した人物です。戦いの後方支援や刀狩りの政策を断行したのも三成でした。このように仕事は出来ますが、人の扱いが苦手な人物でもありました。

 

直江兼続

上杉景勝の参謀として長年サポートしてきた人物で、徳川家康との交渉で書いた「直江状」が有名です。手紙の中で徳川家康を辛辣にののしっています。

 

片倉景綱

伊達政宗の軍師で、正宗の幼少期から仕え、「智の片倉景綱」と呼ばれていました。軍師として小田原の役、文禄・慶長の役、関ケ原の戦いで戦功をあげています。

 

山本勘助

武田信玄の軍師として軍事面で活躍した人物です。周辺を北条、今川、上杉などの国々に接していた武田でしたが、戦略を駆使して領土拡大に貢献しました。第四次川中島の戦いで戦死したことになっていますが、実在しなかったという説もあります。

 

島左近

石田三成に仕えていた人物で、類まれな武勇ゆえに「三成に過ぎたる者」と評されています。最後は関ケ原の戦いで亡くなります。

 

鍋島直茂

肥前を治めていた龍造寺隆信に仕え、領国経営に手腕を発揮した人です。関ヶ原の戦いでは東軍についていたため、合戦後は龍造寺氏から領地を譲り受け、肥前佐賀藩の祖となっています。

 

太原雪斎

今川義元に仕えていた軍師で、今川義元の養育係もしていました。軍事面だけでなく外交面でも才能を発揮しています。

 

本田正信

徳川家康に仕えていた人で、若い頃に家康に反旗を翻したことで出奔しますが、のちに復帰が許され、その後は家康の天下取りに貢献しました。

 

このように成功している大名には多くの割合で名軍師がいることが分かります。戦争に勝つためには、軍事面で戦略を立てるだけでなく、寝返り工作などの調略も必要不可欠です。取った領土を統治するには内政面での能力も大事ですね。これらの面で大名を支えたのが軍師でした。こう見ると、戦国時代にはいろいろなタイプの軍師がいるんですね。

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