先回、有名な戦国大名にはどんな人がいるのかを考えました。3英傑と東日本を代表する大名をあげていきましたが、今回は西日本を中心に見ていきます。
毛利元就
中国地方の大大名と言えば、この毛利元就です。傑出した戦略と謀略で国人領主から中国地方を代表する大名にまでのし上がりました。別名「謀神」。彼の息子たち(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)の活躍もあり毛利家の存続に大きく寄与します。有名なエピソードとして三本の矢が挙げられます。「一本では容易く折れる矢も、三本まとめれば折れない」。これは兄弟3人が力を合わせなさいということです。徳川家康と同様に健康オタクだったおかげで74歳まで生きました。元就の子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物でもあります。
長宗我部元親
土佐(高知県)出身で四国統一を果たした大名。しかし20過ぎても初陣せず、おとなしい気性だったことから「姫若子」と家臣たちから侮られていましたが、初陣で大活躍したのちは「鬼若子」と恐れられるようになりました。戸次川の戦いで愛息・信親が戦死すると、息子の遺体を見た元親は泣き崩れて、その後の元親には覇気が無くなり、生活は荒れ、後継ぎ問題で家中を混乱させたままこの世を去っています。
島津義弘
島津と言えば薩摩の国(鹿児島県)の有名大名です。島津貴久の次男で、生涯53度の合戦に参加し数々の武功を立てた猛者で「鬼島津」と呼ばれています。ただ戦上手だっただけでなく医学や学問にも通じていた文化人でもありました。関ヶ原の合戦では東軍(徳川方)の中を敵中突破し、無事薩摩までたどり着いています(島津の退き口と呼ばれている)。義弘は家臣や兵卒を大事にし寝食を共にしています。享年85歳で亡くなりましたが、このとき、義弘の後を追って13名の家臣が殉死したと言われています。
石田三成
元は近江(滋賀県)で寺小姓をしていたが、羽柴秀吉にその才能を見いだされて配下になりました。猛将というイメージはなく、内政面で手腕を発揮しました。官僚型武将といえます。秀吉亡き後は秀頼(秀吉の息子)を補佐していましたが、徳川家康との関ヶ原の戦いで負け、処刑されています。有名なエピソードとして、処刑される前に京都の町を引廻されている最中、三成は水が飲みたくなり警護の者に伝えたところ、水がなかったので干柿を差出された。三成は「痰の毒であるから食べない」と言って断った。「間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしい」と笑われたが、三成は「そなた達小物には分からないだろうが、大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うから」であると答えたようです。
今回は大名編のパート2を考えました。戦国時代にはまだまだ多くの大名がいます。そしてエピソードも残っています。また時間があった時にこの話題を取り上げていきたいと思います。