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なぜ江戸はわずか2000人の漁村から世界最大の都市になれたの?

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江戸城と夕焼け

1590年に徳川家康は江戸に入府します。もともと愛知県や静岡県辺りを治めていた家康でしたが、関東一円を支配していた北条氏を倒したことで、豊臣秀吉から関東の8つの国と交換させられてしまいました。家康からすれば勝手に領地が変えられてしまいますので不服だったと思いますが、それを渋々受け入れた家康は拠点を江戸にします。普通に考えれば北条氏が治めていた小田原や鎌倉幕府があった鎌倉に行きそうですが、家康は人口約2000人が住んでいたにすぎない江戸に移動しました。

 

家康は、江戸に入るとすぐに神田山を削り、日比谷入江を埋め立てるなどの大規模な土木工事を始めます。そして町を広げて、城下町の建設を始めていきます。まさにデベロッパー(開発業者)のようなことを始めます。そして、江戸幕府を開くと、町は急速に発展していきます。1609年に来日したスペイン人のドン・ロドリゴによると、当時の江戸の人口が15万人くらいと記録していますので、初期に比べてかなりの人が江戸の町に入ってきたことになります。

 

参勤交代などによって江戸の町には武士たちが住むようになると、それを支える労働力として地方から多くの人がやって来ました。1657年には明暦の大火で江戸の町の半分以上が燃えてしまいましたが、復興させるためにさらに多くの人と物が江戸の町にやって来ます。それら出稼ぎ労働者が定住し始めます。その当時の人口が推定80万人とも言われていますので、この時期には世界最大の都市になっています。

 

人々の住居を確保するため、江戸湾の入り江が大規模に埋め立てられ、町は海側に拡大していきます。17世紀末期には海側だけでは土地が足りなくなってきたので、市街地が周辺に向かって拡大していきました。1787年の時点で人口は推定150万人を超える都市に成長しました。

 

短い期間の間になぜこれほどまでに人口が増加できたのでしょうか。それは平野が多かったからです。小田原にも足柄平野がありますが平野面積が小さく、西に箱根山、北に丹沢山地、東に大磯丘陵、南に相模湾という立地のため、多くの人口を抱えることが出来ません。鎌倉も三方が山に囲まれていて、南には相模湾ということで、小田原以上に狭い場所となっています。そのように考えると江戸を中心として広大な関東平野を発展させた家康は先見の明があったと言えるのではないでしょうか。今では東京に1300万人の人が住んでいますので、家康が現在の東京を見たら感動するに違いありません。

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