貴殿のふとした疑問に答えるブログ

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クラーク博士は北海道を去った後、波乱に満ちた人生を送っていたってホント?

さっぽろ羊ヶ丘展望台の丘の上に立っている銅像と言えばクラーク博士ですね。テレビなどでも札幌を映す際にたびたび登場します。彼の言った言葉の中に「Boys, be ambitious like this old man」があり、「この年老いた私のように、少年よ、大志を抱け」という意味の言葉を学生たちに送っています。今回は北海道の開拓史に活躍したクラーク博士の経歴と晩年について考えたいと思います。

 

クラークは医者の息子としてアメリカに生まれ、その後ドイツに留学し、科学の博士号を取っているというエリートでした。アマースト大学の教授をしていた際、日本人留学生である新島襄(同志社大学の創設者)と出会います。その縁もあって、クラークはマサチューセッツ農科大学の学長をしていた時に、明治政府からの誘いを受け、札幌農学校(北海道大学)教頭に赴任することになりました。この時クラークは50歳でした。

 

農学校では植物学を中心に自然科学を英語で教え、キリスト教の講義も行いました。年俸は現在の価値だと1億2000万円に相当するという、破格の待遇でやってきたのです。しかし任期はたったの8ヵ月で、アメリカに帰国する際に、学生たちに述べた言葉が冒頭に出てきた「少年よ、大志を抱け」です。

 

では、アメリカに帰国したクラークはどうなったのでしょうか。まず、大学に復職しましたが財政悪化のため辞職します。その後、フローティング・カレッジという、校舎が汽船で、世界中を巡りながら学ぶという大胆な計画を立てましたが、スポンサーも志願者も集まらずに失敗に終わります。

 

次に、銀鉱山会社を営みます。最初は順調でしたが、知人の横領によって次第に経営が悪化し倒産します。加えて、叔父からは破産をめぐる訴訟を起こされ敗訴しています。このようにお金にまつわる問題が多かったことから、人々から「詐欺師」と言われてしまいました。心労もたたって心臓病や肺炎を患うようになり、59歳で亡くなります。

 

Ambitiousは大志だけでなく野心という意味があります。もしかしたら学生に対してクラークは「私のように野心を抱きなさい」と言っていたのかもしれません。クラークはたくさんの失敗をしましたが、晩年になっても野心を捨てずにいろいろなことにチャレンジする人だったのでしょう。彼自身まさに「Boys, be ambitious」を体現していたんですね。

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