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一向一揆ってどうせ農民の反乱だろ? えっ!違うの?

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写真はwikipediaから参照 金沢城

戦国時代の本やドラマを見ているとどこかで「一向一揆(いっこういっき)」という言葉を耳にすることがあります。とりわけ織田信長が長島(三重県)で一向一揆と戦っていましたから、聞いたことのある人も多いでしょう。でも、「どうせ農民の反乱でしょ」と感じている方も多いと思います。そもそも一向一揆とは何でしょうか。

 

そもそも「一向」とは、「ひたすら」という意味があり、ひたすら阿弥陀仏を信仰する「一向宗」を指しています一向の影響を受けた浄土真宗の信徒が一揆を起こすことを一向一揆と言います。その地の農民だけでなく、武士や僧侶や商人も含まれていました。この一向一揆というのは、他の大名との戦いと同じくらい厄介な存在でした。なぜなら、経済的な要求ではなく支配地域を奪うことが度々あったからです。彼らの目指すものは戦国大名や荘園の支配を拒み、国民や農民による自治を目指す「百姓持ちの国づくり」を行なう事でした。

 

「信長の野望」というゲームをやっていると、石川県あたりに本願寺という大名がいて、めっちゃ強い坊さんたちが北陸周辺を治めていました。「なんで坊さんが支配しているんだろう?」と疑問に思っていましたが、1488年に加賀で起きた一向一揆により守護大名だった富樫政親を打ち破った結果、これら坊さんたちは約100年ものあいだ大名として支配していたのです。支配した地域では、上層農民たちの合議による自治が行われ、組織的な統制のとれた支配を行ないました。ちなみに写真の金沢城は、加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院だった尾山御坊の跡地に造ったお城です。

 

さて、一向一揆が起こったのは加賀(石川県)だけだったのでしょうか。そうではありません。冒頭でも述べた長島一向一揆でも織田信長の支配に反抗して決起しますが、織田軍による3度の攻撃で鎮圧されています。また越前(福井県)一向一揆も信長によって鎮圧されました。そして信長は石山本願寺(大阪府)に本拠を移していた本願寺の法主である顕如と戦い、10年以上の歳月を費やして和睦によって退去させることに成功しています。手ごわい相手だったんですね。

 

徳川家康も一向一揆に苦しめられています。三河(愛知県)一向一揆では、家康の家臣団の半数が一向一揆側に立ったため、窮地に陥っています。家康はなんとか勝利し一揆の解体に成功しましたが、武力によって向かってくる相手は戦国大名にとっては脅威の軍団でした。

 

今回は一向一揆について考えました。一向一揆はただの農民の反乱ではなく、宗教戦争の一つということだったんですね。もし「信長の野望」を行なう機会があったら、本願寺でプレイしてみるのはいかがでしょうか。能力の高い家臣(坊さん)が多くいますが、その反面、周囲に上杉謙信や織田信長がいるので苦労もあると思います…

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