今も大阪の中心にある大きな城と言えば大阪城を思い浮かべるのではないでしょうか。公園内もかなりの広さで、観光客のみならず地元の人たちの憩いの場所となっています。しかし天守閣は1615年に豊臣家が滅んだと同時に城も落城していますので、現在の天守閣は1931年に再建されています。といっても90年経っているんですね。ちなみに現在の天守閣は国の登録有形文化財に登録されています。
徳川方は1914年の冬に20万を超える軍勢で大阪城に攻めてきましたが、大阪城は3重の堀と運河に囲まれており難攻不落の城だったので、豊臣方としては籠城していれば勝てると思っていました。でも歴史が示す通り、落城してしまったのです。なぜでしょうか。
大阪冬の陣での徳川軍は、大阪城の堀や運河に行く手を阻まれ、真田幸村が陣取る真田丸を攻撃しようにも返り討ちに遭うなど、苦戦を強いられていました。そこで家康は天守に向かって大砲を延々と打ち続け、城の中にいる秀頼の母親である淀殿に恐怖心を植え付けて和議を結ばせました。
和議の条件は、大阪城の外堀だけを埋めるという約束でしたが、家康はしれっと内堀も埋めてしまったのです。加えて、二の丸と三の丸も強引に壊してしまったのです。結果、大阪城は本丸だけの裸城となり、要塞としての機能が無くなってしまったのです。防御力激減と言うことですね。
冬の陣での豊臣軍は籠城しながら戦えましたが、夏の陣では防御力を失った城は使えないので野戦を選択します。しかし圧倒的な兵数で攻める徳川軍に豊臣軍は敗れ、滅ぼされてしまったのです。
なぜ家康は大阪城の堀を埋めるという弱点を知っていたのでしょうか。それは、豊臣秀吉が生きていた頃、「唯一、大阪城の堀を埋めれば攻め落とせる」ということを徳川家康に漏らしていたからだと言われています。秀吉自ら大阪城の弱点を伝えていたのですね。この一言が豊臣家を滅ぼす一因となってしまったことはなんとも皮肉な話です。家康は城攻めの天才と言われた秀吉の攻略法に倣ったことで勝利をおさめることができました。
いくら難攻不落といえども、弱点を突かれたら弱くなってしまうものです。そこをうまく突けた家康は、狡猾さや流れを読む力に長けている武将と言えますね。