豊臣秀吉は織田信長亡き後、日本を統一しました。農民から太閤にまで登りつめた日本史の中でも有名な人物です。そして織田信長と徳川家康に並ぶ「戦国三英傑」に1人です。秀吉は知恵を用いて幾多の戦いに勝利していきました。そして天下統一後の1592年と1597年の2回、朝鮮に戦いを挑みました。これは「文禄・慶長の役」と呼ばれています。秀吉は中国の明を征服したいと考え、そのためにはまず朝鮮を支配しようとしたのです。
初めのうちは日本軍が順調に進軍し、漢城(現在のソウル)や平壌(現在の北朝鮮の首都)などを占領するなど圧倒していました。しかし次第に海上での補給が難しくなり、加えて明の援軍によって苦戦するようになっていきます。そして、2回目の戦いの途中で秀吉が亡くなったため、戦いは何も得られずに戦は終わりました。
そもそも、なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのでしょうか。それは、豊臣政権が武力を基にした政権だったからです。秀吉は戦いで活躍した武将に土地を与えて、その信頼を得ていました。そのため、領地を増やし続けることが必要でした。また、武力で政権を保っていたため、勝ち続けることで自分の力を証明しなければなりませんでした。
さらに、秀吉は織田信長以来の兵農分離政策を勧めていました。これは、武士が農業の2足のわらじを履くのではなく、武士に専念することです。この政策を続けていたため、領地を広げると武士の数も増えました。戦いがあるときはこの政策が役立ちましたが、戦争がなくなると多くの武士が仕事を失う危険があったのです。それで秀吉はこの問題を解決するために、朝鮮で新しい戦いの場を求め、領土を獲得しようと目論んだのです。
しかし、この出兵は結果的に多くの費用がかかり、政権を弱体化させてしまいました。その後、徳川家康はこの教訓から、よけいな戦いを避け、武士を抱え込むのではなく、浪人(仕官先を失った武士)を容認する政策に舵を切ったのです。もし秀吉も同じような政策を取っていれば、豊臣政権はもう少し長く続いたかもしれません。皮肉なことに、徳川家康はその後、約260にわたり安定政権を築くことになっていきます。